金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』感想

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 先日、金子武蔵『ヘーゲル精神現象学』(ちくま学芸文庫、1996年)を読了した。この本からヘーゲル哲学について学んだことを、自らの復習も兼ねて雑多に書きつらねてみたい(以下、ページ数の表記は同書のページを指す)。

I. 『精神現象学』の構造

 ヘーゲルによると、「学一般の、あるいは知の右のような生成[絶対知の生成]こそは、学の体系第一部としての精神現象学が叙述するところのものである。」(57頁)。ここで絶対知とは、「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」(57頁)である。これを(誤りをおそれるが)わかりやすく言い換えると、「絶対者(神のようなもの)が自己自身であると認識すること」というように規定できると思われる。したがって、『精神現象学』は、絶対者が自己自身であるという認識(知)が生成される過程を叙述したものであると言える(59頁)。

 絶対者は自分自身であるというような認識は、普通の認識を持つ私たちからすればいかにも突拍子のないものであり、にわかには理解できない。だからこそ、普通の認識から絶対知へのハシゴが必要であり、それが『精神現象学』である。また、絶対知自身も、単なる観念的なものにとどまらず、現実的なものとして自己を実現しなければ真実たりえないため、絶対知自身が一度普通の認識に戻り、ふたたび絶対知まで現実的に登りつめる必要がある(このことを言い表したのが、有名な「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というフレーズである)。

 以上のような『精神現象学』は、次のような構造をとる(53頁)。

A. 意識(感覚・知覚・悟性)

B. 自己意識(欲望・主と奴・自由)

C. 理性

 AA. 理性(観察する理性・行為する理性・社会)

 BB. 精神(人倫・教養・道徳性)

 CC. 宗教(自然宗教・芸術宗教・啓示宗教)

 DD. 絶対知

II. 「実体」と「主体」について

 ヘーゲル哲学の有名な考えに、実体は主体である、というものがある。一見何を言っているのか全くわからないが、この実体は主体であるという考えは、いくつかの意味で理解されているように感じられた(以下、便宜的にこの考えを「実体=主体」と呼ぶ)。

1. 絶対者は自己自身である、という意味において

 まず、本書で『精神現象学』のテーマとして説明されているのは、絶対者は自己自身である、という意味での「実体=主体」理解である。ここでは、「実体」は真理や絶対者といった意味で理解され、「主体」は自己、あるいは人間という意味で理解されている(309頁参照)。

2. 対象は自己自身である、という意味において

 そのほかにも、より手近で素朴な「実体=主体」理解として、対象について考えることは自己について考えることと同じである、というものもある(意識から自己意識への移行。88頁)。ここでは、「実体」は「物」という意味で(88頁)、「主体」は自己という意味で理解されていると思われる。

3. 絶対精神は運動である、という意味において

 さらに、これは私見だが、絶対精神は静止したものではなく、弁証法的に運動するものであるという意味において、「実体=主体」を理解することも可能であると思われる。ここでは、「実体」は弁証法的に運動する精神であり、「主体」とは運動を意味している(日本語で「主体的に行動する」などというときの主体理解に近い)。

III. ヘーゲルキリスト教

 本書を読んで新たに学んだことの1つに、ヘーゲル哲学はキリスト教に大きく影響を受けており、依存関係とすら言える関係にあることがある。特に重要だと思われるのが、三位一体説からの影響である。

 ヘーゲル弁証法は、普遍的なもの(統一)と個別的なもの(分裂)の対立・矛盾を描いた上で、個別を積極的に生かしつつ普遍性へと帰還する(再統一)という形で展開されることが多い(例えば、知覚の章において、まず一と多、普遍と個別とが対立し、そこから悟性という普遍的な形式へと発展するなど)。これは、①神という普遍的なものが、②イエス・キリストとして人の世に受肉し、③十字架で死ぬことにより再び普遍的な天に帰還しつつ、原罪を負った此岸の人々を救った、という構造と類似している。そして、三位一体説によれば、大工の子としての人間イエス・キリストも神に他ならない。

 ヘーゲルによれば、時代を動かしている精神もまた、普遍的であると同時に、個別的に自己を現実に表現していかねばならない。そして精神が現実に自己を表現する際に用いるのは、主観的精神である人間である。これは、神という観念的存在がキリストという個別的人間として人の世に現れ、現実を変えたことと重なる。実体は主体であるというヘーゲルの思想は、三位一体説から大きな影響を受けている。

IV. ヘーゲル弁証法について

1. 弁証法とは何なのか

 ヘーゲル弁証法といえば、テーゼ(正)・アンチテーゼ(反)が止揚(aufheben)され、ジンテーゼ(合)に至るという形で整理されることが多い。しかし、このような定式はヘーゲル自身が行ったものではないし、本書でもほとんど登場しない。また、ヘーゲルの哲学をこのような弁証法の図式に当てはめて理解しようとするのもおそらく正しくない。なぜなら、本書の各所で次のように述べられているからである。

 ヘーゲルの方法はいわゆる弁証法にほかなりませんが、これは正・反・合というような形式を内容にそとから押しはめるのではなく、内容そのものに即して考えてゆけば内容がおのずからそういうプロセスを取らざるをえないような、そういう形式なのです。(83頁)

 1つの段階を考えるときに、そとから弁証法をもち込まずに、できるだけその段階そのものの身になって見て、それ自身が次第に高い段階に進まざるをえないようにすることにヘーゲルは努力しているのです。(100頁)

 弁証法には簡単な要約を許さないいくつかのヴァリエーションがありそうだ、というのが、本書を読んだ素人の感想であった。例えば、個別性、特殊性(個別と普遍が矛盾している状態)を経て普遍性に至ると説明されることもあれば、普遍的全体的なもの(実体性)が、反省を媒介として実体性を回復すると言われることもあり(62頁)、どうもこの2つは違うもののように思われた(私の理解不足でうまく言語化できないが)。もっとも、これも感想の域を出ないが、2つのものが矛盾・対立し、いずれの理解も一面的に過ぎないが、同時に一面では真理であることから、一方が他方に相互に転換し、そこから両者を総合する動きが生まれるところは、弁証法の基本的部分であるように思われた(301頁参照)。

2. 弁証法の例?

 以上のような弁証法のエッセンス(と思われるもの)を、私が思いついた卑近な例で表現すると次のようになると思われる。

 目の前にどのように動作し、またどのように操作するのかわからない大きな機械があるとする。第一段階は、この機械をありのままに認識している段階である。これは機械の全体を認識しているから、その意味で普遍的な認識である。しかし、何のためのどのような機械なのかは、この素朴な普遍性の段階ではさっぱりわからない。

 そこで、第二段階として、目の前の大きな機械を分解して調べる必要がある。これが個別性、あるいは反省の段階にあたる。全体としてのみ事物を把握するのではなく、この全体を分割し、細かく構造を認識することではじめて、目の前の機械の仕組みを理解し、どう操作すれば何ができるのかを明らかにできる。

 しかし、このように機械を細かく認識したとしても、機械として作動することができるのは、この機械が再び組み立てられ、全体として動作する限りにおいてである。したがって、機械は再び元の姿に組み立てられ、全体として用いられなければならない。ここにおいて、第三の段階として、普遍性が回復され、再統一される。この再統一の段階は、第一段階と同じく普遍的であるが、第一段階と同じではない。我々は今や、個別性あるいは反省の段階を経て、目の前の機械の使い方を認識しているからである。このように、ヘーゲル弁証法においては、統一が分裂を経て再統一されるが、単に元の統一に戻るのではなく、分裂による反省が十分に生かされた形でより高度な統一に至るのである。