「判断過程の過誤欠落審査」について(行政法)

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I. はじめに

 行政法の学習において、行政裁量というテーマは極めて重要だと思う。そこでは、①行政庁に裁量は認められるのか、②行政庁の裁量をいかにして統制するか、といったことが問題になる。本記事で取り扱いたいのは、このうち②であり、それも「判断過程の過誤欠落審査」という審査手法である。判例がいくつかの場面で用いているこの判断手法について、よく分からないと思いながら考えるうち、この審査手法はかなり特殊なのではないかと思うに至った。関連文献をほとんど読んでおらず、よって的外れなことを述べている可能性が高いが、考えたことを言語化してみたい。

1. 判断過程の過誤欠落審査とは何か

 「判断過程の過誤欠落審査」とは、判例の次のような裁量統制手法を表したものであり、呼称は原田大樹『例解行政法』(東京大学出版会、2013年)68頁による。

最判平成4年10月29日民集 46巻7号1174頁

右の原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。

 また、この判断過程の過誤欠落審査は、原発の設置許可処分、教科書検定生活保護老齢加算年金廃止といったいくつかの場面で最高裁により用いられているとされる(原田・前掲68頁)。

2. 本記事のねらい

 以上のような基準を読むと、判断過程に着目し、専門家組織の調査審議・判断の過程に著しい過誤があるかを審査し、かつ、行政庁の判断がその専門家組織の判断に依拠しているのかを検証するということがわかる。しかし、私には、それ以上は分からなかった。言い換えれば、この一般的基準を読んだだけでは、具体的事案においてどのような審査がされるのか、想像できなかった。

 そこで、判断過程の過誤欠落審査を用い、実際に処分を一部違法とした最判平成9年8月29日民集51巻7号2921頁(第三次教科書訴訟)を取り上げ(→II.)、この審査手法がどのようなものであり、またどのような特徴を有するかを分析する(→III.)。これにより、判断過程の過誤欠落審査の内在的理解を目指す。

II. 第三次教科書訴訟の事案と判旨

 ここでは、法廷意見が修正意見を違法と判断した、「七三一部隊」に関する点にしぼって取り上げる。

1. 事案

 原告X執筆に係る高校用の日本史教科書について、文部大臣が、昭和五五年度に申請された新規検定の際に右教科書の原稿本の記述に対して修正意見及び改善意見を付した。Xは、修正意見及び改善意見が違法であり、文部大臣のこれらの意見によって精神的苦痛を被ったとして、国に対し、国家賠償法一条に基づいて損害賠償を求めた。

 ここで取り上げる「七三一部隊」について。Xは、教科書277頁の脚注に「またハルビン郊外に七三一部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた。」と書き加えようとする改訂検定の申請をした。これに対し、文部大臣は、七三一部隊のことは現時点ではまだ信用に堪え得る学問的研究、論文ないし著書が発表されていないので、これを教科書に取り上げることは時期尚早であり、選択・扱いの上で不適切であるとの理由により、右原稿記述を全部削除する必要がある旨の修正意見を付した。これに基づき、Xは教科書の記述を変更した。

 教科書検定に関する行政過程については、①申請者の申請を受けて、②検定審議会が審議し、文部大臣に答申を行い、③これに基づいて文部大臣が検定意見(修正意見または改善意見)を付することになっているようである。

2. 判旨

(1) 一般的基準

 最高裁は、教科書の合否の判定、条件の付与は文部大臣の合理的な裁量に委ねられていることを認めた上で、次のような基準を示した(改行は筆者。引用判例は省略した)。

 合否の判定、合格の判定に付する条件の有無及び内容等についての検定審議会の判断の過程に、原稿の記述内容又は欠陥の指摘の根拠となるべき検定当時の学説状況、教育状況についての認識や、旧検定基準に違反するとの評価等に看過し難い過誤があって、文部大臣の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、右判断は、裁量権の範囲を逸脱したものとして、国家賠償法上違法となると解するのが相当である。

 そして、検定意見は、原稿の個々の記述に対して旧検定基準の各必要条件ごとに具体的理由を付して欠陥を指摘するものであるから、各検定意見ごとに、その根拠となるべき学説状況や教育状況等も異なるものである。例えば、正確性に関する検定意見は、申請図書の記述の学問的な正確性を問題にするものであって、検定当時の学界における客観的な学説状況を根拠とすべきものであるが、検定意見には、その実質において、(一) 原稿記述が誤りであるとして他説による記述を求めるものや、(二) 原稿記述が一面的、断定的であるとして両説併記等を求めるものなどがある。そして、検定意見に看過し難い過誤があるか否かについては、右(一)の場合は、検定意見の根拠となる学説が通説、定説として学界に広く受け入れられており、原稿記述が誤りと評価し得るかなどの観点から、右(二)の場合は、学界においていまだ定説とされる学説がなく、原稿記述が一面的であると評価し得るかなどの観点から判断すべきである。また、内容の選択や内容の程度等に関する検定意見は、原稿記述の学問的な正確性ではなく、教育的な相当性を問題とするものであって、取り上げた内容が学習指導要領に規定する教科の目標等や児童、生徒の心身の発達段階等に照らして不適切であると評価し得るかなどの観点から判断すべきものである。

(2) 具体的適用

原審認定の前期事実によると、七三一部隊に関しては、本件検定当時既に多数の文献、資料が公刊され、中には昭和四三年に刊行された上告人の著作もあり、必ずしもすべてが本件検定の直前に公刊されたわけではないことが明らかである。そして、原審が、本件検定当時、七三一部隊の存在等を否定する見解があったことを認定していないことに照らせば、本件検定当時、これを否定する学説は存在しなかったか、少なくとも一般には知られていなかったものとみられる。そうすると、本件検定当時において、七三一部隊の実態を明らかにした公刊物の中には、作家やジャーナリストといった専門の歴史研究家以外のものが多く含まれており、また、七三一部隊の全容が必ずしも解明されていたとはいえない面があるにしても、関東軍の中に細菌戦を行うことを目的とした「七三一部隊」と称する軍隊が存在し、生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはないほどに定説化していたものというべきであり、これに本件検定時までには終戦から既に三八年も経過していることをも併せ考えれば、文部大臣が、七三一部隊に関する事柄を教科書に記述することは時期尚早として、原稿記述を全部削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断の過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準に違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権の範囲を逸脱した違法があるというべきである。

III. 検討

1. 「判断過程の過誤欠落審査」の内実

 まず、一般的基準について、判旨を詳細に読んで気づくのは、判例が判断過程の過誤欠落審査を示す一般論を述べた後、より具体的な下位規範を立てていることである。もっとも、同じく判断過程の過誤欠落審査を用いた最判平成24年2月28日民集66巻3号1240頁では、下位の規範は立てられておらず、必ず判例がこのようなスタンスを取っているわけではない。

 また、「看過しがたい過誤」が何に認められなければならないか(審査の対象)について意識を向けると、それは「検定審議会の[...]検定当時の学説状況、教育状況についての認識や、旧検定基準に違反するとの評価等」である。ここで、「旧検定基準に違反するとの評価」に看過しがたい過誤があるかも審査される点は、注目されてよいように思われる。審議会においては、これは判断過程というより、最終的な判断そのものであり、私が「判断過程の過誤欠落審査」という名前から想起した以上に、この審査の対象は広いものだった。これは、検定は教科用図書検定調査審議会の答申に基づいて文部大臣が行うものであり、文部大臣の検定意見付与を最終的な結果とするなら、検定調査審議会の旧検定基準に違反するとの評価も、判断過程にほかならないからだろう(「審議会での審議→審議の結果たる評価→評価の文部大臣への答申→文部大臣による検定意見付与」という一連の判断過程)。

 次に、具体的適用においては、判例審査の手法がある程度明らかになっている。判例はかなり詳細に学説状況を検討している。七三一部隊に関する文献の数、それらの文献の公刊と検定との時間的間隔、七三一部隊の存在を否定する文献の不存在などの原審認定の事実に基づいて、七三一部隊の存在は検定当時の学会において定説であったと認定し、検定審議会の学説状況の認識、判断に看過しがたい過誤があったとしている。中川丈久「判批」行政判例百選I[第4版]176頁は、この手法を次のように整理する。「記述内容・学説状況・教育状況にかかる審議会の認識と、裁判所の認識(事実認定)を比較し、その間の乖離がないか、あるいは『看過しがたい』ほどでなければ、前者[=審議会の認識]は合理的(看過し難い過誤はない)と判定」する。この手法の思考の展開を分析的に見れば、①裁判所が事実認識を行い、②裁判所の事実認識と審議会の事実認識を比較する、というものであろう。

 ここでこの審査手法について付言する。事実認定(①)の段階において、裁判所には、行政裁量に対する敬譲といった姿勢がとくに見られない。事実の認識・評価は、裁判所が自らの考えるところに従い行っているようである。行政裁量に配慮されるのは②の段階であり、審議会の認識・評価と裁判所の認識・評価の乖離が「看過しがたい過誤」にまで至らない限り、行政庁の判断は裁量の範疇とされる(中川・前掲177頁参照)。

 以上をまとめると、学生が判断過程の過誤欠落審査で答案を書く際には、少なくとも次の点への配慮が必要だと思われる。①必要に応じて下位規範を立てること、②審査の対象は専門家組織での判断全般に及び、専門家組織の事実状況把握、その評価の合理性だけでなく、判断結果の合理性をも検証すること、③審査の手法は、裁判所の事実認識、判断結果と審議会のそれを比較し、その乖離が「看過しがたい過誤」にまで至っているか、というものであること(そして、④裁判所の事実認識の際には、行政裁量は顧慮されない)。

2. 「判断過程の過誤欠落審査」への違和感

 以上の検討で、少しは「判断過程の過誤欠落審査」の内実が明らかになったと思う。最後に、判断過程の過誤欠落審査への違和感を述べたいと思う。それは、この審査手法における、「法」との距離の遠さである。

 この違和感は、他の審査方法である、「実体的判断過程統制」(原田・前掲66頁)と比較すれば明らかになる。この他事考慮、考慮不尽などを審査する統制手法は、「法」を基準としなければならない(塩野宏行政法I総論[第6版]』(有斐閣、2015年)151頁)。そしてここでいう「法」とは、単に処分の根拠規定のみでなく、法の一般原則や、憲法などをも含む(土田伸也「判批:最判平成18年2月7日」行政判例百選I[第7版]149頁参照)。実体的判断過程統制においては、処分の根拠規定の愚直な解釈ではないにせよ、法による裁判の建前は守られていると言えるのである。

 これに対し、判断過程の過誤欠落審査においては、裁判所と行政庁の事実認定の比較が問題になり、ここにおいて法が登場しているようには思えない。一応、事実認定の乖離が「看過し難い」ものかどうかは、規範的に判断するのだろうが、この規範的判断も法という規範をもって行われているようには、少なくとも法廷意見からは読めない。もっとも、反対意見まで目を通せば、平成9年判決の大野判事の反対意見では、修正意見と改善意見を区別し、修正意見は改善意見と異なり重大な不利益を与える行政処分であるから、修正意見の内容が合理的であるのみならず、原稿記述の欠陥が訂正、削除または追加されない限り教科書として不適切であると評価せざるをえない程度に達している必要があるとしている。これは、比例原則の適用であろう。しかし、法廷意見は修正意見と改善意見を区別しておらず、このような比例原則の適用を認めるものではないと思われる。

 このような特徴に関して、思うところを2点述べて終わることにしたい。

 第一に、判断過程の合理性を法を基準とすることなく審査することは、裁判官の恣意的な判断の可能性を必然的に伴う。本記事で取り上げた七三一部隊について言えば、裁判所は、この部隊が存在することは通説であるか(したがって、教科書に記載しないことは合理性を欠くか)といったことを判断することになる。しかしこれはごく単純化して言えば、「何割の研究者が支持していれば通説か」という、困難な問題を裁判官がフリーハンドで判断しなければならないことを意味する。実際に、この点についての判断は、最高裁の法廷意見と第二審で分かれたほか、山口判事による詳細な反対意見が付され、その反対意見の内容にも相当の説得力があると感じられるのである。

 第二に、「看過し難い過誤」をどの程度で認めるか次第では、裁判所は行政庁の事実認識に積極的に取って代わり、裁判所は自らが正しいと思うところの事実認識を示すことになる。しかし、行政と司法とで、事実認識に必要な情報を収集する能力に長けているのは、どう考えても行政側であろう(裁判所は、弁論に現れた事実を元に判断できるに過ぎない)。そうすると、法の解釈適用ならまだしも、事実認識についても裁判所が出しゃばって行政の認識を誤りとして覆すことは妥当なのだろうか。ここには、裁判所の職分(例えば、政策形成機能について)をどう考えるかにも関わる難しい問題が潜むように思われる(政策形成機能につき参照、田中成明『裁判をめぐる法と政治』(有斐閣、1979年))。