証明責任の分配に関する簡単な整理

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I. はじめに

 民事訴訟における証明責任の分配について、色々と読んでいるうちに図式的な整理を思いついたので、忘れないうちに書き留めたいと思う。

 三木浩一ほか『民事訴訟法[第3版]』(有斐閣、2018年)(以下、「LQ」とする。)267頁以下では、支配的な見解として法律要件分類説が紹介され、その後、利益衡量説と修正法律要件分類説が紹介されている。私の理解では、法律要件分類説の一類型である規範説をベースに、他の見解をある程度図式的に位置づけることができるように思われる。

II. 規範説の概要

 規範説とは、法律要件分類説の一類型であり、ローゼンベルクというドイツの訴訟法学者が確立した見解である(高橋宏志『重点講義民事訴訟法[第2版補訂版]』(有斐閣、2013年)539頁)。その内容は以下のように定式化され(高橋・前掲540頁以下参照)、非常に論理的である。

  1. 法規不適用の原則
  2. 当事者は、自己に有利な法規の要件事実について証明責任を負う。
  3. 「有利な法規」とは、権利者にとっては「権利根拠規定」であり、義務者にとっては「権利障害規定」および「権利消滅規定」である。
  4. 「権利根拠規定」「権利障害規定」「権利消滅規定」の識別は、法規の条文の形式的構造に依拠する。たとえば、本文と但書といった構造である。

 以上の定式の2~4は、2の文言を3が説明し、3の文言を4が説明する形になっている(1については、IVにおいて軽く触れる)。その意味で、非常に論理的な定式だと思う。

 以上のような規範説を構成する要素のうち、以下で着目したいのは3および4である。3は、法律要件分類説の中核的主張である。法律要件を分類するから法律要件分類説と呼ばれているのであり、3のような分類を受け入れる学説は、内部に差があるにせよ一応まとめて「法律要件分類説」と呼ぶことができる。では、ここでいう「内部に差がある」とは、どのような差であろうか。これは、4における違い、すなわち、規定の識別基準についての違いに他ならないと考える。つまり、3に賛成するかで法律要件分類説かそうでないかが区別され、3を受け入れる法律要件分類説内部での違いは、4についての争いとして理解できる。

III. その他の学説の整理

1. 利益衡量説

 LQ269頁が「利益衡量説」として紹介する見解は、3を受け入れない見解である。「権利根拠規定」「権利障害規定」といった中間項を介在させることなく、ある法律要件の証明責任の有無を直截に利益衡量(証拠との距離、立証の難易、事実の蓋然性)によって判断する。したがって、規範説と利益衡量説は3の段階で対立する。

2. 修正法律要件分類説

 これに対し、修正法律要件分類説は、3を受け入れる。したがって、この説が「修正」するのは4である。ただし4の内容について、おおまかにいって2つの見解が対立する(高橋・前掲546頁)。1つが、法規の立法趣旨に加えて、当事者間の公平の観点、すなわち立証の難易、証拠との距離、蓋然性を考慮する見解である(新堂幸司『新民事訴訟法[第6版]』(弘文堂、2019年)612頁以下)。もう1つが、実体法の趣旨、実体法に基づく価値判断を主たる基準とし、立証の難易や証拠との距離などを考慮しないという見解である(高橋・前掲547頁)。これらの見解の対立点は、4の識別基準について、証拠法上の考慮を認めるか、認めないかという点にあると言える。

IV. 補論 ーー 「いわゆる法律要件分類説」について

 ここで、上記定式の1についても簡単に触れておきたい。証明責任について、法規不適用説と証明責任規範説という対立が存在する(新堂・前掲604頁参照)。

 法規不適用説とは、要件事実が訴訟上証明されなかった場合、法規は実体法上も不適用であると考えるものである。そうすると、真偽不明はそれ自体で実体法規が不適用であることを帰結するので、自己に有利な実体法規の適用を求める者はその法規の要件事実を証明しなければ敗訴することになり、上記定式の2が導かれる。ローゼンベルクは法規不適用説をとった。

 しかし、要件事実が存在しているなら、実体法上はその法規が適用されて法律効果が発生するとみることもできる(実体法体系と訴訟法を区別するなら、このように考えるのが自然である。法規不適用説は、実体法上の法律効果の発生を訴訟上の証明の可否に依存させているからである)。そうすると、訴訟上証明がされずに真偽不明だからといって、当然に法規の不適用が帰結されるわけではない。むしろ、事実の存否が不明である以上、素直に考えると法規は適用も不適用もできない。この真偽不明の場合に、当該法規の不適用を指示する規範こそ「証明責任規範」という新たな規範である。これが証明責任規範説である。

 観念的な議論だが、宇野聡「証明責任の分配」伊藤眞=山本和彦編『民事訴訟法の争点』(有斐閣、2009年)184頁、188頁は、この点についての争いを鍵として学説の位置づけを行っている。

V. まとめ

 自分で実際に書いてみて、教科書に書いてあることをあえて分かりにくく言い換えているだけな気もしてきた。以上の整理から何か学べることがあるとすれば、「法規をどのように分類するか」の問題(定式3)と、「個別の法規がどの分類に識別されるか」の問(定式4)は、全く別の問題であることをしっかり意識すべき、ということだろうか。また、上記定式の3のみを答案に書いて満足するのではなく、4においていかなる理由でいかなる基準を採るのかこそが重要であると思われる。法律要件分類説と一口に言っても、規範説、修正法律要件分類説が(ごくおおまかに言って)2通り、計3通り存在するからである(なお、宇野・前掲は、本記事とは異なる学説の分類を行っている)。

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』感想

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 先日、金子武蔵『ヘーゲル精神現象学』(ちくま学芸文庫、1996年)を読了した。この本からヘーゲル哲学について学んだことを、自らの復習も兼ねて雑多に書きつらねてみたい(以下、ページ数の表記は同書のページを指す)。

I. 『精神現象学』の構造

 ヘーゲルによると、「学一般の、あるいは知の右のような生成[絶対知の生成]こそは、学の体系第一部としての精神現象学が叙述するところのものである。」(57頁)。ここで絶対知とは、「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」(57頁)である。これを(誤りをおそれるが)わかりやすく言い換えると、「絶対者(神のようなもの)が自己自身であると認識すること」というように規定できると思われる。したがって、『精神現象学』は、絶対者が自己自身であるという認識(知)が生成される過程を叙述したものであると言える(59頁)。

 絶対者は自分自身であるというような認識は、普通の認識を持つ私たちからすればいかにも突拍子のないものであり、にわかには理解できない。だからこそ、普通の認識から絶対知へのハシゴが必要であり、それが『精神現象学』である。また、絶対知自身も、単なる観念的なものにとどまらず、現実的なものとして自己を実現しなければ真実たりえないため、絶対知自身が一度普通の認識に戻り、ふたたび絶対知まで現実的に登りつめる必要がある(このことを言い表したのが、有名な「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というフレーズである)。

 以上のような『精神現象学』は、次のような構造をとる(53頁)。

A. 意識(感覚・知覚・悟性)

B. 自己意識(欲望・主と奴・自由)

C. 理性

 AA. 理性(観察する理性・行為する理性・社会)

 BB. 精神(人倫・教養・道徳性)

 CC. 宗教(自然宗教・芸術宗教・啓示宗教)

 DD. 絶対知

II. 「実体」と「主体」について

 ヘーゲル哲学の有名な考えに、実体は主体である、というものがある。一見何を言っているのか全くわからないが、この実体は主体であるという考えは、いくつかの意味で理解されているように感じられた(以下、便宜的にこの考えを「実体=主体」と呼ぶ)。

1. 絶対者は自己自身である、という意味において

 まず、本書で『精神現象学』のテーマとして説明されているのは、絶対者は自己自身である、という意味での「実体=主体」理解である。ここでは、「実体」は真理や絶対者といった意味で理解され、「主体」は自己、あるいは人間という意味で理解されている(309頁参照)。

2. 対象は自己自身である、という意味において

 そのほかにも、より手近で素朴な「実体=主体」理解として、対象について考えることは自己について考えることと同じである、というものもある(意識から自己意識への移行。88頁)。ここでは、「実体」は「物」という意味で(88頁)、「主体」は自己という意味で理解されていると思われる。

3. 絶対精神は運動である、という意味において

 さらに、これは私見だが、絶対精神は静止したものではなく、弁証法的に運動するものであるという意味において、「実体=主体」を理解することも可能であると思われる。ここでは、「実体」は弁証法的に運動する精神であり、「主体」とは運動を意味している(日本語で「主体的に行動する」などというときの主体理解に近い)。

III. ヘーゲルキリスト教

 本書を読んで新たに学んだことの1つに、ヘーゲル哲学はキリスト教に大きく影響を受けており、依存関係とすら言える関係にあることがある。特に重要だと思われるのが、三位一体説からの影響である。

 ヘーゲル弁証法は、普遍的なもの(統一)と個別的なもの(分裂)の対立・矛盾を描いた上で、個別を積極的に生かしつつ普遍性へと帰還する(再統一)という形で展開されることが多い(例えば、知覚の章において、まず一と多、普遍と個別とが対立し、そこから悟性という普遍的な形式へと発展するなど)。これは、①神という普遍的なものが、②イエス・キリストとして人の世に受肉し、③十字架で死ぬことにより再び普遍的な天に帰還しつつ、原罪を負った此岸の人々を救った、という構造と類似している。そして、三位一体説によれば、大工の子としての人間イエス・キリストも神に他ならない。

 ヘーゲルによれば、時代を動かしている精神もまた、普遍的であると同時に、個別的に自己を現実に表現していかねばならない。そして精神が現実に自己を表現する際に用いるのは、主観的精神である人間である。これは、神という観念的存在がキリストという個別的人間として人の世に現れ、現実を変えたことと重なる。実体は主体であるというヘーゲルの思想は、三位一体説から大きな影響を受けている。

IV. ヘーゲル弁証法について

1. 弁証法とは何なのか

 ヘーゲル弁証法といえば、テーゼ(正)・アンチテーゼ(反)が止揚(aufheben)され、ジンテーゼ(合)に至るという形で整理されることが多い。しかし、このような定式はヘーゲル自身が行ったものではないし、本書でもほとんど登場しない。また、ヘーゲルの哲学をこのような弁証法の図式に当てはめて理解しようとするのもおそらく正しくない。なぜなら、本書の各所で次のように述べられているからである。

 ヘーゲルの方法はいわゆる弁証法にほかなりませんが、これは正・反・合というような形式を内容にそとから押しはめるのではなく、内容そのものに即して考えてゆけば内容がおのずからそういうプロセスを取らざるをえないような、そういう形式なのです。(83頁)

 1つの段階を考えるときに、そとから弁証法をもち込まずに、できるだけその段階そのものの身になって見て、それ自身が次第に高い段階に進まざるをえないようにすることにヘーゲルは努力しているのです。(100頁)

 弁証法には簡単な要約を許さないいくつかのヴァリエーションがありそうだ、というのが、本書を読んだ素人の感想であった。例えば、個別性、特殊性(個別と普遍が矛盾している状態)を経て普遍性に至ると説明されることもあれば、普遍的全体的なもの(実体性)が、反省を媒介として実体性を回復すると言われることもあり(62頁)、どうもこの2つは違うもののように思われた(私の理解不足でうまく言語化できないが)。もっとも、これも感想の域を出ないが、2つのものが矛盾・対立し、いずれの理解も一面的に過ぎないが、同時に一面では真理であることから、一方が他方に相互に転換し、そこから両者を総合する動きが生まれるところは、弁証法の基本的部分であるように思われた(301頁参照)。

2. 弁証法の例?

 以上のような弁証法のエッセンス(と思われるもの)を、私が思いついた卑近な例で表現すると次のようになると思われる。

 目の前にどのように動作し、またどのように操作するのかわからない大きな機械があるとする。第一段階は、この機械をありのままに認識している段階である。これは機械の全体を認識しているから、その意味で普遍的な認識である。しかし、何のためのどのような機械なのかは、この素朴な普遍性の段階ではさっぱりわからない。

 そこで、第二段階として、目の前の大きな機械を分解して調べる必要がある。これが個別性、あるいは反省の段階にあたる。全体としてのみ事物を把握するのではなく、この全体を分割し、細かく構造を認識することではじめて、目の前の機械の仕組みを理解し、どう操作すれば何ができるのかを明らかにできる。

 しかし、このように機械を細かく認識したとしても、機械として作動することができるのは、この機械が再び組み立てられ、全体として動作する限りにおいてである。したがって、機械は再び元の姿に組み立てられ、全体として用いられなければならない。ここにおいて、第三の段階として、普遍性が回復され、再統一される。この再統一の段階は、第一段階と同じく普遍的であるが、第一段階と同じではない。我々は今や、個別性あるいは反省の段階を経て、目の前の機械の使い方を認識しているからである。このように、ヘーゲル弁証法においては、統一が分裂を経て再統一されるが、単に元の統一に戻るのではなく、分裂による反省が十分に生かされた形でより高度な統一に至るのである。

「判断過程の過誤欠落審査」について(行政法)

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I. はじめに

 行政法の学習において、行政裁量というテーマは極めて重要だと思う。そこでは、①行政庁に裁量は認められるのか、②行政庁の裁量をいかにして統制するか、といったことが問題になる。本記事で取り扱いたいのは、このうち②であり、それも「判断過程の過誤欠落審査」という審査手法である。判例がいくつかの場面で用いているこの判断手法について、よく分からないと思いながら考えるうち、この審査手法はかなり特殊なのではないかと思うに至った。関連文献をほとんど読んでおらず、よって的外れなことを述べている可能性が高いが、考えたことを言語化してみたい。

1. 判断過程の過誤欠落審査とは何か

 「判断過程の過誤欠落審査」とは、判例の次のような裁量統制手法を表したものであり、呼称は原田大樹『例解行政法』(東京大学出版会、2013年)68頁による。

最判平成4年10月29日民集 46巻7号1174頁

右の原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を基にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤、欠落があり、被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである。

 また、この判断過程の過誤欠落審査は、原発の設置許可処分、教科書検定生活保護老齢加算年金廃止といったいくつかの場面で最高裁により用いられているとされる(原田・前掲68頁)。

2. 本記事のねらい

 以上のような基準を読むと、判断過程に着目し、専門家組織の調査審議・判断の過程に著しい過誤があるかを審査し、かつ、行政庁の判断がその専門家組織の判断に依拠しているのかを検証するということがわかる。しかし、私には、それ以上は分からなかった。言い換えれば、この一般的基準を読んだだけでは、具体的事案においてどのような審査がされるのか、想像できなかった。

 そこで、判断過程の過誤欠落審査を用い、実際に処分を一部違法とした最判平成9年8月29日民集51巻7号2921頁(第三次教科書訴訟)を取り上げ(→II.)、この審査手法がどのようなものであり、またどのような特徴を有するかを分析する(→III.)。これにより、判断過程の過誤欠落審査の内在的理解を目指す。

II. 第三次教科書訴訟の事案と判旨

 ここでは、法廷意見が修正意見を違法と判断した、「七三一部隊」に関する点にしぼって取り上げる。

1. 事案

 原告X執筆に係る高校用の日本史教科書について、文部大臣が、昭和五五年度に申請された新規検定の際に右教科書の原稿本の記述に対して修正意見及び改善意見を付した。Xは、修正意見及び改善意見が違法であり、文部大臣のこれらの意見によって精神的苦痛を被ったとして、国に対し、国家賠償法一条に基づいて損害賠償を求めた。

 ここで取り上げる「七三一部隊」について。Xは、教科書277頁の脚注に「またハルビン郊外に七三一部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた。」と書き加えようとする改訂検定の申請をした。これに対し、文部大臣は、七三一部隊のことは現時点ではまだ信用に堪え得る学問的研究、論文ないし著書が発表されていないので、これを教科書に取り上げることは時期尚早であり、選択・扱いの上で不適切であるとの理由により、右原稿記述を全部削除する必要がある旨の修正意見を付した。これに基づき、Xは教科書の記述を変更した。

 教科書検定に関する行政過程については、①申請者の申請を受けて、②検定審議会が審議し、文部大臣に答申を行い、③これに基づいて文部大臣が検定意見(修正意見または改善意見)を付することになっているようである。

2. 判旨

(1) 一般的基準

 最高裁は、教科書の合否の判定、条件の付与は文部大臣の合理的な裁量に委ねられていることを認めた上で、次のような基準を示した(改行は筆者。引用判例は省略した)。

 合否の判定、合格の判定に付する条件の有無及び内容等についての検定審議会の判断の過程に、原稿の記述内容又は欠陥の指摘の根拠となるべき検定当時の学説状況、教育状況についての認識や、旧検定基準に違反するとの評価等に看過し難い過誤があって、文部大臣の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、右判断は、裁量権の範囲を逸脱したものとして、国家賠償法上違法となると解するのが相当である。

 そして、検定意見は、原稿の個々の記述に対して旧検定基準の各必要条件ごとに具体的理由を付して欠陥を指摘するものであるから、各検定意見ごとに、その根拠となるべき学説状況や教育状況等も異なるものである。例えば、正確性に関する検定意見は、申請図書の記述の学問的な正確性を問題にするものであって、検定当時の学界における客観的な学説状況を根拠とすべきものであるが、検定意見には、その実質において、(一) 原稿記述が誤りであるとして他説による記述を求めるものや、(二) 原稿記述が一面的、断定的であるとして両説併記等を求めるものなどがある。そして、検定意見に看過し難い過誤があるか否かについては、右(一)の場合は、検定意見の根拠となる学説が通説、定説として学界に広く受け入れられており、原稿記述が誤りと評価し得るかなどの観点から、右(二)の場合は、学界においていまだ定説とされる学説がなく、原稿記述が一面的であると評価し得るかなどの観点から判断すべきである。また、内容の選択や内容の程度等に関する検定意見は、原稿記述の学問的な正確性ではなく、教育的な相当性を問題とするものであって、取り上げた内容が学習指導要領に規定する教科の目標等や児童、生徒の心身の発達段階等に照らして不適切であると評価し得るかなどの観点から判断すべきものである。

(2) 具体的適用

原審認定の前期事実によると、七三一部隊に関しては、本件検定当時既に多数の文献、資料が公刊され、中には昭和四三年に刊行された上告人の著作もあり、必ずしもすべてが本件検定の直前に公刊されたわけではないことが明らかである。そして、原審が、本件検定当時、七三一部隊の存在等を否定する見解があったことを認定していないことに照らせば、本件検定当時、これを否定する学説は存在しなかったか、少なくとも一般には知られていなかったものとみられる。そうすると、本件検定当時において、七三一部隊の実態を明らかにした公刊物の中には、作家やジャーナリストといった専門の歴史研究家以外のものが多く含まれており、また、七三一部隊の全容が必ずしも解明されていたとはいえない面があるにしても、関東軍の中に細菌戦を行うことを目的とした「七三一部隊」と称する軍隊が存在し、生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはないほどに定説化していたものというべきであり、これに本件検定時までには終戦から既に三八年も経過していることをも併せ考えれば、文部大臣が、七三一部隊に関する事柄を教科書に記述することは時期尚早として、原稿記述を全部削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断の過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準に違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権の範囲を逸脱した違法があるというべきである。

III. 検討

1. 「判断過程の過誤欠落審査」の内実

 まず、一般的基準について、判旨を詳細に読んで気づくのは、判例が判断過程の過誤欠落審査を示す一般論を述べた後、より具体的な下位規範を立てていることである。もっとも、同じく判断過程の過誤欠落審査を用いた最判平成24年2月28日民集66巻3号1240頁では、下位の規範は立てられておらず、必ず判例がこのようなスタンスを取っているわけではない。

 また、「看過しがたい過誤」が何に認められなければならないか(審査の対象)について意識を向けると、それは「検定審議会の[...]検定当時の学説状況、教育状況についての認識や、旧検定基準に違反するとの評価等」である。ここで、「旧検定基準に違反するとの評価」に看過しがたい過誤があるかも審査される点は、注目されてよいように思われる。審議会においては、これは判断過程というより、最終的な判断そのものであり、私が「判断過程の過誤欠落審査」という名前から想起した以上に、この審査の対象は広いものだった。これは、検定は教科用図書検定調査審議会の答申に基づいて文部大臣が行うものであり、文部大臣の検定意見付与を最終的な結果とするなら、検定調査審議会の旧検定基準に違反するとの評価も、判断過程にほかならないからだろう(「審議会での審議→審議の結果たる評価→評価の文部大臣への答申→文部大臣による検定意見付与」という一連の判断過程)。

 次に、具体的適用においては、判例審査の手法がある程度明らかになっている。判例はかなり詳細に学説状況を検討している。七三一部隊に関する文献の数、それらの文献の公刊と検定との時間的間隔、七三一部隊の存在を否定する文献の不存在などの原審認定の事実に基づいて、七三一部隊の存在は検定当時の学会において定説であったと認定し、検定審議会の学説状況の認識、判断に看過しがたい過誤があったとしている。中川丈久「判批」行政判例百選I[第4版]176頁は、この手法を次のように整理する。「記述内容・学説状況・教育状況にかかる審議会の認識と、裁判所の認識(事実認定)を比較し、その間の乖離がないか、あるいは『看過しがたい』ほどでなければ、前者[=審議会の認識]は合理的(看過し難い過誤はない)と判定」する。この手法の思考の展開を分析的に見れば、①裁判所が事実認識を行い、②裁判所の事実認識と審議会の事実認識を比較する、というものであろう。

 ここでこの審査手法について付言する。事実認定(①)の段階において、裁判所には、行政裁量に対する敬譲といった姿勢がとくに見られない。事実の認識・評価は、裁判所が自らの考えるところに従い行っているようである。行政裁量に配慮されるのは②の段階であり、審議会の認識・評価と裁判所の認識・評価の乖離が「看過しがたい過誤」にまで至らない限り、行政庁の判断は裁量の範疇とされる(中川・前掲177頁参照)。

 以上をまとめると、学生が判断過程の過誤欠落審査で答案を書く際には、少なくとも次の点への配慮が必要だと思われる。①必要に応じて下位規範を立てること、②審査の対象は専門家組織での判断全般に及び、専門家組織の事実状況把握、その評価の合理性だけでなく、判断結果の合理性をも検証すること、③審査の手法は、裁判所の事実認識、判断結果と審議会のそれを比較し、その乖離が「看過しがたい過誤」にまで至っているか、というものであること(そして、④裁判所の事実認識の際には、行政裁量は顧慮されない)。

2. 「判断過程の過誤欠落審査」への違和感

 以上の検討で、少しは「判断過程の過誤欠落審査」の内実が明らかになったと思う。最後に、判断過程の過誤欠落審査への違和感を述べたいと思う。それは、この審査手法における、「法」との距離の遠さである。

 この違和感は、他の審査方法である、「実体的判断過程統制」(原田・前掲66頁)と比較すれば明らかになる。この他事考慮、考慮不尽などを審査する統制手法は、「法」を基準としなければならない(塩野宏行政法I総論[第6版]』(有斐閣、2015年)151頁)。そしてここでいう「法」とは、単に処分の根拠規定のみでなく、法の一般原則や、憲法などをも含む(土田伸也「判批:最判平成18年2月7日」行政判例百選I[第7版]149頁参照)。実体的判断過程統制においては、処分の根拠規定の愚直な解釈ではないにせよ、法による裁判の建前は守られていると言えるのである。

 これに対し、判断過程の過誤欠落審査においては、裁判所と行政庁の事実認定の比較が問題になり、ここにおいて法が登場しているようには思えない。一応、事実認定の乖離が「看過し難い」ものかどうかは、規範的に判断するのだろうが、この規範的判断も法という規範をもって行われているようには、少なくとも法廷意見からは読めない。もっとも、反対意見まで目を通せば、平成9年判決の大野判事の反対意見では、修正意見と改善意見を区別し、修正意見は改善意見と異なり重大な不利益を与える行政処分であるから、修正意見の内容が合理的であるのみならず、原稿記述の欠陥が訂正、削除または追加されない限り教科書として不適切であると評価せざるをえない程度に達している必要があるとしている。これは、比例原則の適用であろう。しかし、法廷意見は修正意見と改善意見を区別しておらず、このような比例原則の適用を認めるものではないと思われる。

 このような特徴に関して、思うところを2点述べて終わることにしたい。

 第一に、判断過程の合理性を法を基準とすることなく審査することは、裁判官の恣意的な判断の可能性を必然的に伴う。本記事で取り上げた七三一部隊について言えば、裁判所は、この部隊が存在することは通説であるか(したがって、教科書に記載しないことは合理性を欠くか)といったことを判断することになる。しかしこれはごく単純化して言えば、「何割の研究者が支持していれば通説か」という、困難な問題を裁判官がフリーハンドで判断しなければならないことを意味する。実際に、この点についての判断は、最高裁の法廷意見と第二審で分かれたほか、山口判事による詳細な反対意見が付され、その反対意見の内容にも相当の説得力があると感じられるのである。

 第二に、「看過し難い過誤」をどの程度で認めるか次第では、裁判所は行政庁の事実認識に積極的に取って代わり、裁判所は自らが正しいと思うところの事実認識を示すことになる。しかし、行政と司法とで、事実認識に必要な情報を収集する能力に長けているのは、どう考えても行政側であろう(裁判所は、弁論に現れた事実を元に判断できるに過ぎない)。そうすると、法の解釈適用ならまだしも、事実認識についても裁判所が出しゃばって行政の認識を誤りとして覆すことは妥当なのだろうか。ここには、裁判所の職分(例えば、政策形成機能について)をどう考えるかにも関わる難しい問題が潜むように思われる(政策形成機能につき参照、田中成明『裁判をめぐる法と政治』(有斐閣、1979年))。

民事訴訟の目的① 問題の所在と戦前の二説

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 最初の記事として、民事訴訟の目的論について、私が理解したところを数回に分けて書いていきたい。はじめに私の思うところを述べると、これからの民事訴訟の目的論は、それを問うことの意味をまず問う(問い続ける)べきであると思う。

I. 問題の所在:民事訴訟の目的論を問う意味

1. 民事訴訟の目的論とは

 民事訴訟の目的論とは、民事訴訟という制度の目的を問うものである。「民事訴訟はなぜ存在するか」という問を考えるものと言ってもいいかもしれない。これまでに提唱された目的論のうち、主要なもの(本記事で触れたいと思っているもの)を挙げると、①権利保護説、②私法秩序維持説、③紛争解決説、④多元説、⑤手続保障説、⑥権利保障説(新権利保護説)などがある(その他にも様々な見解がある)。目的論は、たいてい教科書の冒頭で触れられ、民事訴訟を学ぶ上での出発点を成しているかのような印象を受ける。

2. 民事訴訟の目的論の目的論

 目的論についてここまで学説が乱立し混乱した原因は、「民事訴訟の目的論」というテーマの下で①何を②何のために論じるかという問題が、長らく等閑に付されていたことだと思う。後に触れたいと思っているが、この点が明確に意識されるようになったのは、おそらく1970年代からである。

(1) 何を論じるか

 「民事訴訟の目的論」と言うときの「民事訴訟」とは何か。ローマ法から日本国憲法まで、いかなる法体系の民事訴訟にも共通する、普遍的な民事訴訟なのか。それとも、あくまで日本国憲法の下で司法権を付託された裁判所が行う民事訴訟なのか。さらに、民事訴訟とは非訟事件ADRを含むのか、それとも訴訟手続に限られるのか(新堂幸司『新民事訴訟法[第6版]』(弘文堂、2019年)5頁参照)。

(2) 何のために論じるか

 高橋宏志教授の『重点講義民事訴訟法(上)[第2版補訂版]』(有斐閣、2013年)15頁によれば、民事訴訟の目的論の位置づけは論者により多様であり、①体系化のための目的論、②方法論としての目的論、③解釈論・立法論としての目的論、④通説批判のための目的論があるという。このように、何のために目的論を論じるかという問にも共通の答えがあるわけではない。

 そもそも、「民事訴訟の目的論」という問自体が独特である。なぜなら、他の実定法分野、例えば民法憲法で、「民法の目的は何か」とか「憲法の目的は何か」とかいう風に、取り立てて問が立てられることはあまりないと思われるからである。そうすると、「民事訴訟の目的論」という問が立つことの意味自体が問われてもよいはずであるが、学説は、ある時期まで、ここを問うことなく展開してきた節がある。

3. 本記事の流れ

 以上のような問題について、明確な答えをすぐに用意することはできない。そこで、本記事では、以上のような問題意識を常に念頭に置いた上で、これまでの学説史を振り返ってみたい。その上で、稚拙なことを承知の上で、私がどのように考えるかについても示してみたい。

II. 権利保護説 

 権利保護説は、19世紀にドイツの訴訟法学者であるワッハが唱えた見解である(権利保護説、私法秩序維持説については、山木戸・後掲および新堂・後掲を参照)。

1. 権利保護説の概要

 権利保護説は、民事訴訟の目的は文字通り権利の保護にあるとする。民事訴訟の本質は、国家が私的救済を禁止したことの代わりに、権利に保護を与えることにあると考える。

 また、権利保護説は、訴権論においては権利保護請求権説をとる。これは、訴権=勝訴判決請求権として構成する説である。

2. 権利保護説の特徴

 権利保護説の特徴として、その概念法学的発想を挙げることができる。

 第1に、権利は訴訟前にあらかじめ存在していると考える(権利既存の観念。山木戸・後掲)。これは、実体法を完成した体系と見て、いかなる事案においても実体法の論理的な操作によって権利の有無が判定しうるという概念法学的発想の発露である。

 第2に、裁判官の役割は法の創造ではなく、法の適用のみであるとする。これも、法を完成した体系と認識し、その体系の演繹的適用により結論を導くことができるという概念法学的発想に基づく。

III. 私法秩序維持説

 私法秩序維持説は、ドイツの訴訟法学者であるビュローが、ワッハを批判して提唱した学説である。

1. 権利保護説批判

 第1に、権利保護説が前提とする概念法学が不適切である。実定法は完成した体系では決してなく、法には欠缺が存在する。したがって、私権も既存とは限らない。

 第2に、本案判決請求権なる訴権は、訴訟前には存在しない。裁判官がいずれを勝訴させるかを判断するのは弁論が終結した段階であり、弁論の終結に至らなければ、勝訴判決請求権など生じない。

2. 私法秩序維持説の概要

 以上のように、私法秩序維持説は権利既存の観念を否定する。そうすると、民事訴訟の目的も私権の保護ではありえない。そこで、「私法秩序の維持」が目的とされる。

 前述のように、実体法には欠缺が存在している。この欠缺の原因は、立法は一般的な規範を定立するに留まるのに対し、実際の紛争は個別的、具体的であるがゆえに、一般的規範で想定できない事案が必然的に生じることにある。民事訴訟の目的は、このような立法府の限界を補完することにある。個別的な事案において裁判所がルールを示すことにより、法秩序が具体的に補完され、はじめて内面的に完成する。

3. 私法秩序維持説への批判 ―― 紛争解決説の立場から

 以上のように権利既存の観念を激しく批判した私法秩序維持説も、紛争解決説をとる兼子一博士からすると、不適切である。私法秩序維持説は、権利の既存性は認めないが、私法秩序の既存性は認める。紛争解決説に言わせれば、私法秩序すら既存のものではない。むしろ、訴訟が権利も私法秩序も形成するのである。はじめに訴訟があり、私権や私法秩序はあくまで後訴訟的存在である。

 この紛争解決説の主張は、訴訟は事実を認定し、認定した事実に法を適用する、という法律学習者が当然の前提としている考え方とは相容れないものであるように思われる。この見解をはじめて見たとき、実体法と訴訟法の関係についてのいわゆるコペルニクス的転回であると感じた。

 しかし一方で、一般的な実体法と訴訟の関係についての理解とは異なるからこそ、なぜそのような発想を是とするに至ったかも、また1つ気になるところである。次回では、兼子博士の唱えた紛争解決説とはどのようなもので、またどのような目的意識の下に提唱されたのかという点について書いてみたい。

IV. 参考文献

新堂幸司「民事訴訟の目的論からなにを学ぶか」法学教室1号(1980年)38頁

山木戸克己「訴訟法学における権利既存の観念」同『民事訴訟理論の基礎的研究』(有斐閣、1961年)1頁

自己紹介など

I. 自己紹介

 2023年1月現在、京都大学法学部に所属しています。来年度からは、京大の法科大学院に進学予定です。その後は、大学に残って研究をするか、弁護士を目指すか決めかねています。予備試験の受験経験はありません。

 下で述べるように関心のある分野が偏っているので、大学院に入学した後雰囲気になじめるか不安です。

II. ブログの内容

 学んだことのアウトプットを練習する場所にしていきたいと考えています。関心があるのが、主に民事法(特に民事手続法。民事法と言っても商法には苦手意識があります)、憲法法哲学、政治思想、語学(最近はドイツ語)などですので、ブログの内容もこのあたりについてのものが多くなると思います。

 その他、令和5年度の京大法科大学院の試験の再現答案?もそのうち上げたいと思っています。法科大学院入試や司法試験への勉強方法についてなどは、むしろ私が誰かに教わりたいくらいですので、あまり発信する予定はありません...。

 人に見られうることを意識してブログを書こうと思いますので、内容の正確性には気をつけたいとは考えていますが、私の理解不足や能力不足で不正確な内容を上げてしまうおそれがあります。内容を全面的に信頼することは(ないとは思いますが)避けていただきたいです。